それは、或る月夜の晩のコトだ。

 男が倒れている。
 黒髪、黒のカッターシャツ、同色のスラックス、靴――と、全身に黒を纏った、悪趣味
極まりない男だ。
 すぐ傍に小柄な少女がいるだけで、他には誰も見当たらない。
 少女はともかく、この男は知らない相手ではない。
 かつて非合法組織《ヴァルプルギス》に系譜する、暗殺者ギルド《ダンピール》を束ね
ていた男だ。
 それだけならば取るに足らない人物だが、彼にはもう一つの顔が存在する。
 それは、素手で幾千幾万もの《吸血鬼》を屠ってきた男――という顔だ。
 直接見た人間は少ないが、現役時代の戦績は常勝不敗。
 彼が率いた部隊が全滅し、如何なる事態に陥っても、必ず彼だけは生き延びてくるとい
う話だ。
 当然のことながら彼の任務達成率は、百パーセント。それ故にそんな彼を妬む者、畏れ
る者は数知れず、彼は常に孤独だった。
 唯一孤独を紛らわしてくれるとすれば、愛妾同然の女達。
 《吸血鬼》を屠り、女を抱く。闘って、抱いて、闘って、抱いての繰り返し。当然のこ
とながら、彼には心身ともに休みも癒しもなく、救いようもなかった。
 戦闘の中で悦楽を覚え、情事の中で快楽に溺れる毎日――
 それが、彼の全てだった。
「なあ………どうしてだよ………」
 彼は、眼の前に立つ少女に向かって静かな声で訊いてきた。
「………」
 特に返す言葉を持たない少女は、黙りを決め込むしかない。
「なあ………」
「黙れ」
 いい加減頭にきたらしい少女は、恐ろしく冷たい声で突き放した。
「………」
 彼は一瞬、それに怯み、やがて口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「これで………たと思うなよ………俺は、生きている限り何度でも――うっ」
 彼の口から血が吐き出された。量も多く、恐らく内臓に痛手を負っているに違いない。
 しかし、それを見ても少女は眉一つとして動かさなかった。ただ、冷ややかに見下ろす
だけだ。
 彼は、暫く聞き取れない声で何かを言っていたが、やがてそれも消える。
 それを確認すると、少女は踵を返した。

 ――眼が覚めた。
 朝陽がカーテンの隙間から差し込む中、大きく伸びをする。僕は朝特有の気怠さを感じ
ながら上体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡す。まず最初に視界に入ってきたのは、時計。
時刻は既に昼前に差しかかり、今朝眠りに就いた時刻から計算すると、七時間ほど経って
いる。
「あれから、もうそんなに時間が経っていたのか………」
 無意識の内に出た言葉に、僕は口の端を吊り上げ、邪悪な笑みを浮かべる。
 そして思考も自然とそれに見合ったものへと変化する。先程の夢の残滓が頭にこびり付
き、現実と夢の間で僕は微かに余韻に浸った。
 しかしそれも数秒のコト。
 それを阻んで、僕を現実に引きずり戻したのは、低く呻くような奇妙な音――鼾と寝言
だ。
 僕は、すぐ傍から聞こえる、その豪快な音の発生源に眼を向け、静かに観察する。
 そこには、一人の女がいた。限りなくオレンジに近い褐色の髪を肩まで伸ばした、十代
半ば頃の女だ。彼女は一糸纏わぬ生まれたままの姿で、ベッドに大文字で横たわり、爆睡
中だ。口元からは涎が幾条もの筋を引いていて、そこから発生する鼾は豪快極まりない。
 まあ、折角気持ち良さそうに寝ているのだから、ここは放っておくのが一番だろう。
 昔だったら蹴り起こしているトコだが、今は事情が違う。何故なら――
「あ………」
 寝惚けた声が彼女の口から漏れる。
 僅かに視線を外していた僕は、その声に素早く反応する。
 彼女は見るからに気怠げだった。まあ、明け方まで僕と奮戦していたので無理は無い。
 ――まあ、それはさておき。
 彼女は未だに夢の中にいるのか、横たわったまま、定まらない視線を僕に向ける。
 やがて彼女は、曝け出した胸も隠さずに大きく伸びをし、上体を起こす。それから眠た
げな眼を擦り、再び僕に視線を向ける。
 そして彼女はにこやかに微笑んで、一言。
「おはよう」
「………」
 無言の僕に、なぎの顔が不意に泣き出しそうに歪んだ。
「おはよう」
「おはよう」
 返事を返すと、先程の表情が幻であったかのように、いつもの笑顔を浮かべる。
 彼女の名前は、辻 なぎさ――職場の同僚だ。
 年上といっても、現在彼女は二十歳――十八歳の僕より二つ年上というコトになる。
 もっとも、付き合って一年経つ今でも、彼女が年上に見えたコトなど無いのだが………
「今、ボクに対して失礼なコト考えてたでしょ?」
 彼女――なぎは、唐突に不機嫌な顔になり、僕を睨め付けた。
 出逢った頃と較べて、随分と人の心理を読み取るコトが出来るようになったものだ。
 僕は若干頬を緩めていただけのはずだが、なぎには全てお見通しのようだ。
「いえいえ」
「………ふぅん」
 なぎは、疑いの眼差しを僕に向けてきた。
 しかしそれも数秒のコト。
 なぎは、急ににんまりと笑みを浮かべ、まるで猫のようにこちらへしな垂れかかってき
た。そして猫撫で声で、
「ねェ、ボクお腹空いちゃった。コマちゃん、朝ご飯作ってェ〜」
 と、甘えてくる。戸籍上では間違い無く年上のお姉さんなのだが、こういうトコは子供にし
か見えない。けれども、僕はそんなトコが嫌いじゃない。むしろ好きだ。
「へいへい。で、ご注文は何でしょうか?」
「パンがイイな。出来れば、ホットドッグかサンドウィッチ!」
 注文を訊くなり、なぎは元気良く即答し、軽やかにウィンクする。投げキッスのおまけ
付きだ。
 ――か、可愛い………!!
 一瞬、頬に赤みが差し、緩みそうになった。
「はい。ご注文を承りました。すぐにご用意致しますので、少々お待ち下さい」
 そう言って、僕はベッドの脇に畳んで置いた黒いタンクトップと下着を取り上げ、それ
を着用してからベッドを降りた。
 その時、ドアを力の限り叩く音がした。
「誰?」
 僕となぎは顔を見合わせ、頭上に無数の疑問符を浮かべる。ここは我々が家代わりに利
用している安ホテルだ。しかもこのホテルを中心とした一角は、繁華街の拡大事業の邁進
によって捨てられた、限りなくゴーストタウンに近い街だ。当然人通りはなく、淋しいト
コだ。しかもこの時間帯ならば、なおさら人はいない。
 こんな時間に突然訪ねてくるなんて、一体どんな客だ?依頼人か?それとも前の女か?
まさかとは思うが、新手の勧誘か?
 鉄製のドアを叩く音は、まだ続いている。
 ひとまず黒のカッターシャツとスラックスを身に纏い、玄関へと向かう。ドアの覗き穴
から外を見ると、誰もいない。いつの間にかドアを叩く音も聞こえなくなっている。
「悪戯か?」
 呟くと、再びドアが叩かれる。不審に思い、ドアを開けると、
「あ、やっぱりいたのね!もう、すぐに出てきてよ!」
 そこには、見覚えのある女がその場にしゃがみ込んでいた。高そうなスーツをぴしりと
着こなした、金髪碧眼の――まぁ、なぎには及ばないにしろ、中々の美人だ。
 彼女の名前は、アンジェラ・ビアンキ。いつも仕事とは名ばかりのヤバい問題を持って
きてくれる、自称・美しき仲介人だ。何でも、ニフルヘイムという会社の社員らしい。
 どうでもイイが、これでは覗き穴も意味は無いな。
「で、用件は?」
「用件?用件はねぇ、何だと思う?」
「………」
 僕は無言でドアを閉め、素早く鍵をかけた。大体この女に関わるとロクなコトにならな
いのだ。それに僕は、これからなぎのために飯を作らなければいけないのだし。
 溜め息を一つつくと、ドアの外から叫び声が聞こえてきた。何やら不穏当な言葉を発し
ているようだ。仕方がなく、ドアを開けると、
「私とのことは遊びだったのね!あなた、子供に自分の名前から一文字つけてくれるって
言ったじゃない!」
「おい」
「責任を取ってよ!………あ」
 どうやら熱演に身が入っていて、ドアが開いたコトに気付かなかったらしい。
「――もうイイから。話くらい聞いてやるから、あがって」
 僕は肩を落とし、大きく溜め息をついた。
 アンジェラは、遠慮なく中にあがったが、すぐに足を止めた。彼女の視線の先にあるの
は、乱れたベッドと着替え途中のなぎ。大体の事情を察したであろうアンジェラは、罪悪
感に満ちた顔でこちらを振り返ってきた。
「もしかして、お邪魔だった?」
「気にすんな」
 とりあえずそう返し、彼女に座っているように示す。アンジェラは内心後悔しているの
だろうが、大人しく椅子に腰かけた。
 ようやく着替え終えたなぎを伴い、僕はアンジェラの向かいに座る。右隣には、軽装の
なぎが座っている。
「話を聞こうか」
「今回二人に依頼したいのは、ある人物を見つけ出し、保護してもらいたいの」
「俺達は、警察や警備員じゃない。聖職者だ」
 僕は頭をかきながら、呆れたように応じた。するとアンジェラは、室内を舐めるように
と見回した。
「そう?断れる?悪い話じゃないんだけどなぁ」
 正直、返事に詰まった。確かに懐具合はよろしくない。しかし、聖職者は警察や警備員
ではないのだ。おまけにこちらの足元を見ているというのが、気に食わない。
「悪いケド――」
「断る理由は無いですね。お話を伺いましょう」
 僕の言葉を、横からなぎが遮った。
「ちょっと、なぎ………」
「頭に不良の二文字がつく神父さまが何断るフリしてるんだよ?それに、ボク、知ってる
んだよ?」
 そして、ダメ人間を見る目で一言。
「な、何をさ?」
「ここの支払い期限が迫っているのに、払うあてがないんでしょう?」
「う………」
「それに金持ちを相手にご大層な説教をカマして法外な寄付金を集めたり、ナンパした女
の子からお布施を集めたり、『頭にヤのつく自由業』の方々と連んで賭け試合をしている
コトが教会にバレたんでしょ?」
 ぐうの音も出ないとは、まさにこのコトだ。
「それでは、仕事の話に戻りましょう。アンジェラさん、依頼内容を詳しくお聞かせ下さ
い」
 なぎは、妙にキラキラした瞳でアンジェラに向き直った。
「はい」
 小さく頷き、アンジェラは鞄から分厚い封筒と一枚の写真を写真を取り出した。
「まず、ここに前金として百万円あります。依頼を果たした後に、経費とは別に、後金と
して九百万円を支払います」
 つまり依頼を果たせば、これが十倍になるというコトだ。それだけの大金を支払う以上、
依頼内容もそれ相応なのだろう。


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